デンティストKの馬耳東風

カテゴリ: 歴史

源義経が平家の軍に夜討ちをかけようとしたが、暗くて道が見えない。

義経が「例の大松明はどうだ」と問い、-中略ー義経一行は道沿いの民家に火を放ち、
火事の明かりを頼りに山を越えていく。(読売新聞 編集手帳)

ええー!義経ってこんなヒトだったのねー!
民や百姓なんてどうでもよかったのねー。

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まあ、そうだったんでしょうねー。
ナンか勝手に勘違いしてて、でもがっかりしました。

ギリシャ文化が花開いたアテネも、ペロポネソス戦争に敗れ卓越した政治的指導者ペリクレスを失い、衆愚政時代へと突入していった。

ソクラテスは「国の認める神々を尊重せず、アテネの青年たちに害毒を及ぼした。」として裁判にかけられ、死刑の判決を受けてそれに従った。

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衆愚政治は民主政治の制度が内包する構造上の欠陥が表面に現れた現象とする見方もあるようですなー。
現代日本は大丈夫でしょうか?

マラトンの戦いから10年後、B.C.480年、ペルシャ王クセルクセス1世は30万の軍勢を率いてギリシャに侵攻すべく、マケドニアを通って南下した。

ギリシャ軍は最初の防衛線を山と海に挟まれた隘路テルモピレーに決め、スパルタ王レオニダス率いる300のスパルタ兵は死闘を演じ玉砕した。

この奮戦がサラミスの海戦をアテネの勝利に導き、ペルシャ軍は敗退した。



少数精鋭で大軍を破る劇的な戦いはいくつかありますが、玉砕したとはいえテルモピレーの戦いの軍勢の差はかなりなものですなー。
映画「300」では、スパルタ軍わずか300に対してペルシャ軍100万・・・

B.C.490年ペルシャ王ダリウス1世は約2万5千の軍勢をアテネ攻略に送り、
マラトンの平原に上陸した。

アテネのストラテゴの一人に選ばれていたミルティアデスはただちに約一万の重装歩兵団を編成し、ペルシャ軍を奇襲して勝利をおさめた。

このとき一人のアテネ兵士がマラトンでの戦勝をアテネまで走って知らせ、絶命した。マラソンの起源ですなー。

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マラソン日本勢もがんばって欲しいものですなー。

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